雑が喰おう

トイレで唱えた仮説~思い出が記憶に変わるのではなく、記憶が思い出になるわけでもない。思い出した記憶を思い偲ぶかどうかで思い出かただの記憶がかきまるのだ~

トイレで唱えた仮説
 ~思い出が記憶に変わるのではなく、記憶が思い出になるわけでもない。
   思い出した記憶を思い偲ぶかどうかで思い出かただの記憶かがきまるのだ~

あの時、あんなに楽しくて、あんなに嬉しかった出来事で、このことは絶対、思い出に残り続けることだろう。なんて思っていたことが、思い出じゃなく、記憶に変わっていることがある。 そんな馬鹿なことがあってたまるかと思い、足掻いてみても、実際、記憶としてか残っておらず、さらには、曖昧になっていたり、美化されていたりする。

なんだか、呆気なく『思い出は記憶に変わる』のかと納得し、その記憶だけでも忘れないようにして生きていけるようにしようと考えていた。
しかし、考えてみると、『思い出は記憶になってしまう』というよりかは『追憶や追想のように思い出して、想い偲ぶことが思い出』なのではないだろうかとも思える。

個人的に、一人で思い出した時、その出来事は自分の中で曖昧に記録されていたことで、美化されていたりし、記憶として思い出している。
それに対し、友人と昔話をする時は、記憶を呼び起こしながら、あの頃の事を思い偲びながら、思い出として話している。
それは、一人で思い出した時に思い出だったりもするし、友人と話している時でも記憶だったりすることもある。

つまり、今この瞬間の事は何気なく過ごしてしまうと記憶にも残らない出来事になってしまうが、印象に残るようなイベントを含む瞬間は、記憶され、何なの時に思い出す。その時にその記憶を、思い偲ぶかどうかでその記憶が、ただの記憶となるのか思い出になるのかが決まるのではないだろうか。と私はトイレの中で考えた。

スポンサード リンク

スポンサード リンク

»関連してそうな記事